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覚醒の呼び鈴 ①

last update Last Updated: 2025-12-01 23:12:07
 リサはレンタカーの運転席に滑り込み、ドアを閉めた。

 車内という密室に静寂が戻ると同時に、先ほどの由美子との会話、そして数日前の美咲との言い争いが、交互に脳裏をよぎる。

『病的な防衛本能ね……。ねえ、リサ。それを私に話して、どうしたいの? 「だから許すべきだ」とでも言いたいの?』

 美咲の言葉は切実で、リサの胸に深く刺さったままだった。

 一方的に通話を切られたあの日から、連絡を取り合っていない。今、電話をかけたところで、美咲は出てくれるのだろうか。いや、むしろ波風をさらに立てるだけではないか──

 リサはスマートフォンの画面を見つめ、一瞬、躊躇した。

 だが、迷っている時間はない。

 由美子の証言が事実だとすれば、石場の中には制御不能な「何か」が潜んでいることになる。それが動き出す可能性がゼロではない以上、美咲の命は感情的な行き違いよりも遥かに重い天秤に乗せられているのだ。

 万が一があってからでは遅い。嫌われてもいい。警告だけは伝えなければ……

 リサはダッシュボードにスマートフォンを固定し、ハンズフリー通話のボタンをタップした。

 呼び出し音がスピーカーから無機質に響く。

 リサは祈るようにハンドルを握りしめた。

「……はい」

 数コールの後、美咲の声が車内に流れた。

 その声は硬く、まだ怒りの余韻を含んでいるようにも聞こえたが、着信拒否をされなかったことにリサは安堵した。

「美咲……。喧嘩の直後にごめんなさい。でも、どうしても伝えなきゃいけないことがあって。緊急事態なの」

「緊急事態……?」

「妹さんに会えたわ。そして、無視できない証言を得た」

 リサはエンジンを始動させながら、しかし車は発進させずに早口で告げた。

「時間がないから結論だけ言うわ。あなたの直感は当たっていたかもしれない。石場和弘の中には、彼自身も制御できない別人格が潜んでいる可能性がある。それも、極めて攻撃的な人格が」

 スピーカーの向こうで、美咲が息を呑む気配がした。

「妹さんは、それを怪物と呼んでいたわ。幼少期、兄の死に関わっている疑いもある。……いい、美咲。まだ推測の域は出ないけれど、これはもう、単なるストーカーや失踪事件という枠で捉えるべきじゃない。もしその人格が過去の清算のために動き出しているとしたら、次はおそらく両親が狙われる。でも、あなたもターゲットになる可能性は捨てきれない
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